クリエイター心構え


2017年 1月13日
 
 
クリエイター心構え

 技術の具体的なハウツーは多いけど、意外と考え方とか心構えの情報は少ない。

 そこで自分が今までの経験で学んだ心構えを書いてみる。

 およそ師と言うものは技の伝授をする役割も有るけど、むしろ奥義とか秘伝と言ったものは考え方の伝授にあると思う。

 ただし「プロで無い人の考え方をマネしてもプロになれない」という法則もあると思うので、むしろこんな所で余計な知識を入れないほうが良いという事もあるかもしれない。

 おそらくプロに共通する成功方法は「現場に飛び込む」だと思われ、考えたり練習したりするより、アルバイトやアシスタントでも良いからなんとか現実の職業の中に飛び込んでしまうのが一番手っ取り早いものと思われる。

 
 あるいは始めから具体的な内容に入ってしまうとか。

 例えば、スティーブジョブスの経営論に「5個のアイデアの内もっとも大切な1つのアイデアだけを手がける、全部やってるほど人生に時間は無い」と言うのがあります。

 これはもっともな事で、始めから実現したい内容だけに集中し、作り上げるまで他の事に移らない、と言うのが今から思えば成功や実現の秘訣のような気がします。
 
 
 練習とか回り道とかいらないという事で、例えば武村健一さんの「ジェット式」のような考え方もそうでしょう。

 ジェット式と言うのは、武村健一さんがスキーを始めた時初心者の始めから頂上に上がって緊張感の中で集中して覚えた、というもので、減速もカーブもできないのでほとんど直滑降で降りてきていたのでジェットというあだ名が付いたんだそうです。
 一歩間違えればケガをしますが、そんな風に始めから課題に集中して入り、やりながら学ぶという方法です。
 
 
 ただ競争もはげしく才能も乏しく、中々そうも行かない凡人だからこうして思考錯誤してる、という前提もあります。
 
 
 
まずは

 「どんな事も人により、発明(アイデア)によっては原則を越える事もある」という原則をまず踏まえなければならない。

 原則的な考え方はあるけど、時と場所と人によって必ずしも絶対のものは存在しない。

 要するに一般的にはこうだと言われるけど「例外は必ず存在する」という事だ。
 
 
 
事業に絶対は無い

 事業はジャングルの中を切り開いて進むようなもので、この先に何があるのかも分からないし、見通しも効かないので予測もつかない、木を切り石をどかして切り開いて道を作っていくような事なので、何が起こるのかも分からないし、どこに行き着くかの見通しもそれほど定かではない、時には常に未知の新しい問題に対処して行かなければならない。

 芸術家というのは個人事業主である事が多く、そうである以上お金に代えるには必ず事業家としての作業や資質を問われる。

 営業や交渉や打ち合わせや販売や、他者のための仕事という要素は必ず考えなければいけない事になる。
 
 
 昔、松下幸之助が経営者を集めて「ダム経営」の話をしたそうだ。
 ダム経営と言うのは「銀行からお金を借りるのでは無く、事業利益を蓄えておいて自社の資本で事業を回していく」という考え方。
 「どうすればダム経営をできるようになるのですか」という質問に対し「さあ分かりません、しかしやろうと思わなければできませんな」と言ったので、みんな「なんだ」と思ったそうです。
 その中で京セラのたしか稲盛さんでしたっけ?は「そうか」と思って実践して成功したそうです。

 この「具体的な方法は分からないが、やろうと思わなければできない」と言うのが、事業の本質です。

 と言うより物事というのは全てのこの道理で動いてる感じもします。

 なぜ具体的な方法は分からないのかと言うと、それぞれ環境も資質も違うので、その人がどうすれば成功するかはその人が考えて実行して編み出していかなければうまく行かないからです。

 ですから原則としての一般側はありますが、どうやってやっていくかは常にその状況でその人が考えて実践して思考錯誤して行かなければいけません。
 
 
 
失敗について

 チャーチルが「勝ちは最終の勝利を意味しない、負けは絶対の終わりを意味しない、ただあきらめた時歩むのを止めた時に全てが終わる」と言うような事を、正確には覚えてなくていい加減なのですが、そんな様な事を言ってます。

 マンガでバスケの顧問さんも何か「あきらめたら終わり」みたいな事をおっしゃってましたが、これは事業の基本側です。

 失敗は必ずありますし、むしろ9回失敗して1回成功するくらいが一般側です。

 事業と言うのは「この方法ではダメ、では次はこの方法で」という風にやり方を次々とためしていく仕事のような所があると思います。
 もちろんあらかじめ人に聞いたり本を読んだりする人はこの思考錯誤が少なくて済みますが、先にも言いましたが所詮人によっても違うので「やってみないと分からない」という事は常にあります。

 「あきらめずに続けた人が成功する」というのが基本側だと思います。

 つまり成功するまで止めない、というのが成功の原則です。

 ただ人によっては「もういい加減にして、こっちの人生に切り替えろ」という事はありますので、ケースバイケースです。
 
 
 
井戸堀の原則

 金鉱を掘り当てようとしていた人が、金鉱まであと数mであきらめてその穴を他の人に売って次の場所を堀り始め、元の穴を買った人がちょっと掘ったら金鉱が出てきた、というような話があります。

 この話は何を意味するのかと言うと「始めにこれをやりたい」と強く思ったものを、最後まで金鉱に当たるまで、つまり芽が出るまでやり切る事の大切さです。

 実は自分は最初に掘った穴でうまく行かず、その穴を掘る事業資金を得るために別の穴を掘り、それでもダメでまた別の穴を掘り、というやり方を続けて全部中途半端で年齢のタイムリミットにきてしまいました。

 結局どの穴を掘っても金脈に当たるまでは余程の事なので、うまくいかないのは一緒だったのです。

 今から思えば「そんな別の穴を掘る時間があったら、始めの穴をそのまま掘り続ければ半分の時間で金脈を掘り当てただろう」と思います。

 ただしこれも「その方法ではうまくいかない」事を確認して次々と別のやり方をためして正解にたどりつく、という事業の原則と相反しますので、その違いを言うとすれば「何をやりたいかは変えずに、そのやり方を変えてみる」という事になるでしょうか。

 まあ最終的にその人がそれで死ぬまでやっていくべきかのような、この辺の見極めは難しいと思います。

 例えばその人が魂的にどうしても自分はそれだ、と言える様なものならばこだわっても良いのかもしれませんし、あるいはしょせん年齢的なタイムリミットもあるのかもしれません。

 その辺は人によるでしょう。

 (つまり事業的に言えば何がその人に向いているか、何がその人の成功になるかは分からない事が多いので、色々試して行くのもあり、初心をつらぬくのも有り、相反する考え方だけど人や場合による)
 
 
 
年齢の話し

 若い頃は意識しませんが、人間は老いますので年齢的なタイムリミットがあります。

 まず原則体力のピークは25才くらいで、老いが始まるのは40才くらいです。

 プロのオリンピック選手を考えるとよく分かります。

 10代かそれ以前から訓練を始めて、最低10年は習練して、15~25くらいまでが活躍の場です。
 格闘のk-1の選手もそうでしたが、よほど才能が無ければ30を越えると一線は退きます。
 そして一線で活躍できるのは、政治家もそうですがどのような分野でも「10年くらい」がスタンダードです。
 才能も有って仕事も一線で出来る人は、例えば不二子不二夫は「30代半ばが一番仕事ができた」と言ってるので、バリバリの人は30代が活躍の場の人もいるでしょう。

 逆に「才能が無ければ何十年やっても芽はでない」という法則もあるかもしれません。
 才能があれば努力も無しにプロになったりという人もいます。
 ただそういう人は子供の頃から生活がそれの一部になってる様な人だったりするので、何の準備も無しにという事はあまり無いと思われます。
 そんな風に「それがその人そのものである」というようなものが才能だとも言えるでしょう。
 
 
 この辺が技術や才能の世界の原則だと思います。

 才能にもよりますが、凡人はまず10年は続けないと芽が出ないと考えた方が良いです。
 自分がそうでしたが、まず10年続ける人が稀だと思います、年齢にもよりますがそれだけでも割と壮絶です。
 その程度もせずに「才能が無かった」と言うのはどうでしょうか。
 もう一度言いますが、才能が有ると言われる人は、無意識に子供の頃から始めていて10年はやっているはずです。

 自分がそうでしたが20才以降でこれをやろうと思って、10年続けるのは資金的、環境的に至難です。
 ですからできれば扶養されてる10代の頃から10年くらい準備する気構えが要ると思います。
 
 
 芸術家が通用するのは普通30くらいまでです。
 感性がピュアで無くなるので適性が落ちますし、求められる世代の感性とズレるので仕事が難しくもなります。

 自分は原則「芸術家は40(30くらいからかな?)で筆を折るべき」だと考えます。
 なぜかと言うと、その年齢になるとエロ・グロ・バイオレンスの関心が「えげつなくなる」からです。
 子供に見せてはいけないようなものを書く様になるので、あんまり思わしくないと考えます。

 技術とか才能がよほど有る人は、そういった様々な原則を越えるかもしれません。

 例えば退廃的なクリムトの是非がどうかと言われても、ちょっと分かりません。

 もっと俗的な地獄作家も小説やマンガアニメ映画ゲームと色々な分野で居ますが、大御所が堕ちてる事も多いので老害とも言えるでしょう。

 その辺を意識するか、あるいは内容によっては晩年まで続けても良い場合もあるかもしれません。
 例えばアンパンマンのやなせたかしさんとか、どうなんでしょうね。

 まあいずれにしてもこの辺はあくまでも内容の話です。
 または影響力の無い個人の趣味なら、ここでとやかく言う事も無いでしょう。
 
 
 渡部昇一さんが言ってますが「40までに芽が出なければ、才能の世界ではもう無理」だと言われます。
 論語だかにも「40にして知られざれば、その人は恐るるに足らず」というような言葉もあります。

 40になると体力がガクンと落ちるので、体力的にも無理になってきます。
 老後の心配(お金)も始めないといけなくなります。

 また関心自体がある程度生理的にも変化するので、若い頃そうしたいと思ってた事をそれほどでも思わなくなると言う事もあります。
 要するに40を過ぎてアニメみたりマンガみたりTVみたりする人もそんなにいないと思います。
 関心自体が変わります。
 
 
 例外として政治家や評論家、あるいは管理職と言った人は40くらいから後の方が良かったりもします。
 なぜかと言うと論理的、知識的なものだけではダメで経験が要るからです。
 経験を通さないと現実的な本当の正解不正解はまず分かりません。

 長谷川慶太郎さんも50を過ぎてから活躍した人です。
 もちろんそういう人も、名前が出る前から非凡ではあったでしょう。
 
 
 
感謝の効用

 感謝と言うのは物理的な影響を持ちます。

 舞台だか小さな踊り場があったとして、その舞台に感謝をすると、その舞台自体が大きくなる、という現象を生みます。
 逆に舞台が悪いと言って不満や批判をすると、その舞台が小さくなって可能性が閉じてきます。

 感謝と言うのは念エネルギーを供給するか、引き上げるか、という作用を持つようです。

 つまり小さな事でも良く感謝すると、その良いものがどんどん拡大してきます。
 不平不満をぶつけると、その恩恵すら影も形も無くなる事が多いです。

 例えば母親が晩御飯を作ってくれているとします。
 おいしいね、ありがとう、と言ってると例えほんとはまずくても、どんどんおいしくなって来ます。
 逆にまずいと言って文句を言ってると、何も変わらないか晩御飯自体を作らなくなります。

 これは経験則で、事業とか夢を実現したいと思う人にはとても重要な事だと思います。

 わずかでも、やらせてくれてるとか、生かしてくれてるとか、プラスになってるとか言う物には感謝こそすれ、不平不満をぶつけてはいけません。
 自分はそれで失敗したと思ってます。

 まあ言い方は違いますが、巷でも良く聞く話です。
 例えば何かの分野の大御所がおごってどなりちらして落ちてからしまったというような話も、我々よりは先の話ではありますがそうでしょう。
 
 
 
需要と供給

 さて、自分はまだほとんど物を売った事がないのであんまり当たってるかどうか分かりませんが、事業にしてお金をもらう場合は需要と供給を考えないといけないと言われます。

 需要つまりニーズですが、人々がこれが欲しいというものを供給するのが、事業です。
 
 
 集客と需要が大事だと言う事みたいです。

 集客と言うのはどれだけ客を集められるかで、例えば広告を売って沢山の人に見てもらうのもそうだし、ネットビジネスでもアフィリエイトで稼ぐには一日何万アクセス以上から、と言われたりもします。

 どんなに物が良くても誰も知らなければ売れません。
 逆に物がそこそこでも、何かの理由で目だって沢山の人に見てもらう機会があればそこそこ売れるという事のようです。
 その辺が集客という要素になるようです。

 集客だけうまくても需要が無ければやっぱり売れません。
 
 
 需要の関係でニッチ(隙間)という言葉があって、誰もやって無い事新しい事、というのもあります。

 イノベーション(新規産業)はとても重要な事なのですが、それだけでもやっぱりダメなようで、その新規事業にニーズ(需要とか必要性)があるのかと言う事が抜けているために失敗している事業例もたくさんあるようです。

 ニッチの考え方は、たくさんある需要の変化形くらいが良いようです。

 例えばゲームのRPGで言えば、一番需要があるのがドラクエ型だったとして、基本ドラクエ型で中2病要素だけプラスしたニッチとか、そんな感じでしょうか。
 (現在ドラクエを売っても主流は 3Dだし、売れないとは思うが、例えで)

 全然新規のニッチ、例えば戦闘方法自体が斬新だとか言うのは、内容にもよりますが「とっつきにくい」と言われるだけで、別に面白くないとかそういうものが失敗例でしょう。

 ノッチさんのマイクラのような新規は面白いので良い成功例です。
 まあそういうので始めから需要が有るか無いかなんて、やってみないと分からないという事もあります。

 逆もあります。
 ドラクエを量産しても意味がありません。
 一番分かりやすい例がRPGツクールでの量産でしょう。
 全部ドラクエ式のクローンだと思いますが、流石にそれだけで売れる訳ではありません。
 ただ例えばそれでも成功例として、動画で良く見るホラー探索系の何か流行のものがあったと思いますが、そんなのがニッチの成功例と言えるでしょうか。

 いずれにしても新しい要素は要るとは思います。
 
 
 もう一つ言われるのはニーズとシーズは違うと言う事です。
 シーズ(種)というのは、何ができるか、どんな技術をもってるかです。
 持ってるものをただ売ってもニーズ(需要)とは違うと言う事です。

 例えば物で言えば意味無くハイテクな家電とか、アーティストなら自分受けするだけの創作とか。

 アートを否定する気はありませんし、印象派みたいに突き抜ければその内お金にもなるでしょう。
 こだわらなければ面白くないし、新規でやる必要も無いとも思います。
 自分が食えるだけ稼げるなら、それこそばんばんざいだとも思います。
 もちろん自分もパトロンがあるなら、始めから自分のこだわりだけを今もやってるはずです。

 ただ事業にしたいなら、つまりお金にしたいならニーズ(需要)という事は考えないといけないと言う話です。
 
 
 最近のゲームは無料の物が多いですが、なぜかと言うと需要に対して供給が多いからです。
 もし需要に対して供給が少なければ、値段がつりあがって高値でも売れます。

 例えば黎明期には、筐体のゲーム、例えばインベーダーとかいくらだったかは知りませんが何万円か何十万円だったかしたでしょう。
 SFCの時代も1万円くらでした。

 最近はPCさえあれば割と誰でもゲームを作る事もできますし、供給過剰になったのが無料化の一つの原因だと思います。

 ニッチの話もそうですけど、事業は需要に対して供給が少ない所が狙い目とは良く言われるとは思います。
 
 
 
絶対と相対

 ゼロサムゲームという考え方が相対的な考え方です。
 つまり市場の規模というかパイが決まっていてシェア争いをしていて、誰かが勝てばその分誰かが負ける、という考え方です。
 プラスマイナス0で、ゼロサムゲームという事のようです。

 確かにそれも現実にあります。
 例えば株式も投資はどうかしりませんが、投機のようなマネーゲームは9割の人が負けた分を1割の人が回収していると言われます。

 作家でも一握りの上層の人がプロになれます。

 これだと確かに人を蹴落とすような競争をしたくない、という考え方もあるでしょう。
 
 
 しかし絶対的な考え方もあります。
 パイ自体を増やすベクトル(方向、軸)があるのです。

 例えばマンガ雑誌でも読む目的で買われているのは、かっさいの2割りくらいの作品で、後はオマケで読んでもらってるような所があります。
 つまり人気作家が居る事でパイ自体を増やしています。

 ドラクエも無ければ、RPG市場と言うもの自体が今より少なかったでしょう。
 スーパーマリオが無かったら、FCの普及ももっと少なかったでしょうし、ゲーム市場の規模自体を増やしてくれたような所がたぶんあるでしょう。

 そんな風にパイ自体を拡大するような仕事ができれば、たぶんそれほど競争だと思わなくても良いと思います。

 この前提は何かと言えば、要するに面白い物、価値の有るものを作る事です。

 逆に面白くない物を出せば「何だこのジャンルはつまらないじゃないか」と言う事で市場規模を小さくする可能性もあると思います。
 
 
 自分は(と言うかたぶん日本人は)勝つために誰かを負かすという考え方はあまり好きではありませんし、あんまり良くない考え方だと思います。
 近江の商人だったか「三方よし」の精神と言う商人の考え方があります。
 「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」という取引をしろという事で、これは現在ではwinwin(ウインウイン)と言う風に言われますが、取引によって全ての人が得をするような仕事をするという事です。

 まあだから今言われる外資系とかブラック企業には相対的ゼロサムゲーム的な考え方が強いんじゃないかとは思いますが、できれば日本の伝統的な絶対的なwinwinを考えたいものです。
 
 
 まあ要は「とにかく面白いゲームを作る」事に尽きるのかもしれませんね。

 ちなみに残念ながら自分としては、まだ市場を縮小するようなつまらないものしか作れてないと自覚してます。
 どの作品もまだ練習製作に過ぎないという事情もありますが、それでは仕事やお金にならないのも道理ですね。
 なんとかしたいものです。
 
 
 
楽しんでもらおうという与える気持ちで作品を作れ

 事業要素を考えると、これまたクリエイターの基本のきの字のような事らしいです。

 制作時に「幸せになってもらおう」とか「楽しんでもらおう」とか「おもてなししよう」とか「どう喜ばせるか」のような、受け手がどうみるか感じるか、という視点を意識しながら制作、発表しろという事らしいです。

 これができるとオファー(引き)が多くなり「発展する」というのが基本みたいです。

 なぜかと言うと、その作り手の力を借りて世間に発表するのに安心して力を借りられるという事があるように感じます。

 つまりTVのプロデューサーだったとして、TVを視聴する人に無難に気持ちよくなってもらう必要があるし、つまらないとか気分が悪いとかいうコンテンツを下手に投入できません。

 つまり例えば芸術的すぎて、受け手から作者にエネルギーを奪っていってしまうようなものだと、マス(大衆)の商売としては成立しません。
 そういう凄い作品があったとして否定はしませんが、事業とか多くの人に見てもらおうというのには不向きになるでしょう。
 エログロバイオレンスとか不気味とかゴアとかそういうものも同じです。

 見る側、受け手に与えるようなものを制作するように意識して手がけると、社会的には安心して使えるので仕事を頼まれるようになるんだとたぶん思います。

 受け手(消費者、買い手)もそうですね、気分が良くなったり、楽しんだりと言うものをひいきするのは当然です。
 
 
 例えば声優がそうだと思うんですが、声の作りというのは聞き手を意識して造成した声をわざと出しているように思います。
 決して地声とか、自分が言いたいように言う感じでしゃべっても仕事になるような声にならないように思います。
 要するに意識して求められる声を作って提供してる感じはします。
 
 
 たぶんそんな感じで、何度も言いますが独りよがりの壮絶な芸術のようなものもあっても面白いと思うので否定しませんが、事業として、つまり対価としてお金をもらう場合には、受けての事を意識したものづくり、というより与える気持ちみたいなものが有ると軌道に乗って発展する、という事らしいです。

 なぜらしいと言うのかと言うと、自分もまだそこまで出来てないからです(笑)
 なぜかと言うと、その前提としてまず一定の技術がないと制作するだけでアップアップで意識が中々そこまでいかないからです。

 ただし技術のレベルを問わず与える気持ちのこもってるものは、ひきは良くなり沢山の人に見てもらえ、その後の発展も色々としやすい事にはなるんだろうとは思います。
 
 
 
男女の関心について

 男の子と言うのは能力とか技術とか、どれだけ社会や組織に影響力があるかとか、そういう事に関心があります。
 女の子と言うのは好きになったりとか、仲良くなったりとかそういうものに関心があります。

 男性は能力と序列とか何ができるかとか、発展の縦のベクトル、女性は調和、融和、協調のような横のベクトルになってると言われます。

 例えばPCや車選びでも、男性はスピードがとか耐久性がとかスペック(能力)に関心があり、女性は見た目とか座りごこちとかファッション性や、その物から得られるフィーリング(感性とか幸福感とか)に関心があります。
 
 
 普通ゲームと言えば、そもそもゲームというもの自体が現実の生存競争を意味するので、狩や競争をする男性用だったと思います。
 その昔ナムコのパックマンがキャラクター性を引っさげて、アメリカでは初めて女性受けをしたという事らしいです。
 そんな風に単にゲームという場合、要は「能力を競う」という事が多いので男性向けではあったでしょう。

 ポケモンと言うものを考えると、実はこの両方のベクトルが入ってると思える訳です。
 そこで間口、つまり顧客(需要)の潜在数が多い事になり、特に日本のような「みんながやってるなら自分も」というような全体主義的な国民性(皮肉)もあって、売れたのでしょう。

 間単に言うと男性でも女性でも遊べて共通の話題になりえた、という事ではないでしょうか。

 ちなみに自分は世代が違う事もあって、何が面白いのかよく分かりませんでしたけどね。

 スマホのポケモンGOも開発は任天堂と関係ないのですが、キャラクターと言うものが一般受けしやすい要素、特に女性に、と言う事でしょうかね。
 
 
 自分もRPGにおいて「せっかく可愛いキャラなのに、殴り殺すだけなのはどうかなあ」と思ったりする作品もあります。
 インディズゲームでは戦う事も仲間になる事もできる(ボスも含めて)ゲームというものもあります。
 全く戦闘の無いRPG、ムーンでしたっけ?そんなゲームもある事はあります。

 最近のソシャゲですか?ネトゲもですね、そういうものには大体ペットとして主人公を補佐するモンスターがありますから、それも女性受け要素とはたぶん言えるでしょう。

 たぶんおそらくネットにせよ文化を消費してるのは、今は女性の方が多いのではないかと自分は推測しますけどね。
 
 
 作り手として最強なのは、老若男女問わず「普遍性を持つ作品」ではあるでしょう。
 これは例えばコナンドイルのホームズとか、それくらい普遍性を持ったら一流だしクリエイターとして合格と言えるかもしれませんね。
 ハードルがかなり雲の向こうですけど。
 マイクラもかなり老若男女選ばずな感じなので、たいしたゲームだと感心します。

 その逆でターゲットを絞れ、どの層に売るのか意識しろというのも良く聞きますしむしろ一般的ですが、その違いがどこからくるのか自分には分かりません。
 そんな風に正反対の考え方がどちらも場合によって正しい、と言うのも沢山あるのでケースバイケースだと思います。
 
 
 まあゲーム制作で男女を意識して制作する必要はあまり無いとは思いますし、何かに特化して制作してもそれはそれで面白いでしょうし、特に意識する必要は無いとは思いますが「何が面白いと言う要素になるのか」のヒントの一つとして。
 
 
 
分かりやすさ

 これもクリエイターの基本のきらしくて、面白くても内容が良くても分かり難いというのは良くないと言われます。
 狙って複雑にするのでなければ「分かりやすくしろ」というのは大体どの分野でも言われる事だと思います。

 シンプルにとか、マンガ線にしても抽象線を選び出して分かりやすくしてます。
 話(シナリオ)も分からなければ意味が無いとも言われます。

 ゲームでもGUI(操作性)とか分かりやすくなるように考える事は重要だと思います。

 例えばSFCのウルトラセブンのキックだかパンチだかの出し方が複雑だとかで「何でこんなボタン配置なんだ」と文句言われるようなものも、もう少し考えた方が良いでしょう。

 例えばRPGにありがちな「初戦闘になるまでの前置きがやたら長くて投げる」というようなものも、考えた方が良いでしょう。

 要するにプレイビリティ(?、遊びやすさ、分かりやすさ)でしょうか、そういうものの要素は2割くらい作品や売り上げに貢献するというような話も聞いた事があります。
 
 
 ちなみに自分はそういうものを思考錯誤するのが好きで、画面要素の見やすい配置(レイアウト)とか操作の体系を考えたりとかいうのは好きです。
 でもまだあんまり形になってない(笑)
 
 
 
人には運命がある

 結局は実際にプロでやってるのは、才能もあり、生まれてくる前にそういう予定と計画のある人、というのが前提かもしれません。

 全部と言う事は無くて、若い頃には遊びがあるし、どこかで変わるか学ぶためにわざわざ生まれているような所もあるので、この世の影響と努力で道を開く人も居るでしょう。
 努力と言うのはかなり影響力があって大切だとも言われます。
 地上の世界は「やってみないと分からない」という所があって、だからこそわざわざ生まれてくるような所もあります。

 例えば女性の場合「誰かの親になる」計画があってそっちの方が重要なら、いずれ運命的にはシフトする事になるでしょう。
 男性でも同じ事で人生計画があるので、単に余技で有った場合いつまでもと言う人はそんなにいないとは思います。

 人間は魂修業のために「苦しむ経験をつむために」わざわざ生まれてくるような所があるので「一生何の問題も無く楽しく遊び暮らす」と言う人は本当に稀だと思います。
 そういう人も別に居ても良いとは思いますが、守護霊というか霊界の側から必ず課題を出されるので、例えばゲーム会社で楽しく仕事をしていたが親が認知症になって介護が必要なために仕事を止めて大変な人生になった、というような人もいますが、必ず何かハードルを出されるので、ずっとと言う人は中々いないとは思います。
 
 
 おそらく美術で言った場合、地上の美は霊界に存在する美の足元にも及ばない。
 この世界で美しいと思って拾っているものは天上界では石ころ程度に過ぎないと思います。
 色々と天と地がひっくり返っていて真逆な事も多いと思います。

 という訳で、長い転生で見た時に必ずしもその時の流行の職業が魂に幸いする訳でもありません。

 芸術系は特に精神的に堕落する事も多いので、精神錯乱したり麻薬に走ったり、若死にという事も多いです。

 ただ若死にした画家で「生きる事は絵を書く事に値するか」と言って餓死した人がいますが、そういう人は本当に根っからの芸術家でしょう。

 要するに多くの人にとっては「余技」である事が多いと思いますし、そのまま一生続けられたら良いのかと言うと、死んだ大御所の作家を見ても、とくにそんなに尊敬できるような人格でも仕事内容でも無い事も多い感じがして(特にサブカルチャー(マンガアニメとか)は所詮、という感じはする)何が良い人生かは生きてる人間には分からない事かも知れません。

 ただ若い頃は挑戦をしてしかるべきです。
 若者の仕事は革命です。
 
 
 
基礎の話と事業資本

 「人生はどれだけ基礎を積んだかと言えるような所がある」と神様がおっしゃっらているので、そうなんでしょう。

 芸術家なら絵を描く技術の基礎が無いと、応用としてのマンガもアニメもイラストも描けません。
 音楽も何か楽器が弾けたり理論を学んでいたりしないと、応用としての作曲は中々難しいと思います。
 たぶんゲーム制作の基礎は、場合にもよると思いますが取りあえずプログラムの知識でしょうか。

 学歴も一種の基礎とも言えますし、学者や技術者なら学問そのものの基礎がいるでしょうし、部活で養ったような体力もかなり仕事の基礎になります。

 読書も哲学や評論家の基礎として、何万冊読んだかというようなものが指標になるようです。

 お金も沢山用意すれば資本の基礎と言えます。

 事業と言うのは、というより人生になってきますけど、何か基礎が無いと応用としての勝負ができない所があって「歳老いやすく学なり難し」と言われますけど、中々基礎を作る時間も根気も無くただ流されてと言う人も多いでしょう。
 もちろん自分が典型的なそういう凡人ではあるんですけどね。

 自分のやりたい分野でうまく行かないという時に、そもそも基礎が全然無いという事もあるのでは無いでしょうか。

 何かの資本が無いと事業はできないと言われます。
 
 
 
体力の大切さ

 「体力が資本だ」とは昔から良く言われるのですが、経験上結局これはかなりそうだと思います。

 もちろんそれだけとは言いませんし、大体は「知力、体力、時の運」という俗語でかたずけられると思いますが、事業とかお金儲けの場合「結局は体力がお金になってる」事が第一に多いので重要です。

 一番お金を儲けると思われる社長とか営業(販売)というのはほとんど体力勝負です。
 社長で多いのが、1番にスポーツをしていたような体力のある人、2番目によく本を読む人、3番目は幼少の頃から苦労してきた人だそうです。
 これは「知力、体力、時の運(人に対する配慮ができるので運がめぐってくるタイプの人)」そのものです。
 (家康、信長、秀吉と)

 普通一般の仕事もほとんど体力勝負ですので、お金というのは体力がお金になってるというのが大体基本だと思います。
 人間は体が弱って働けなくなったら原則死ぬ運命ですし(蓄えや家族、社会制度が無ければ)この体力が生存の基礎というのは案外古代から変わりません。

 これは実は絵を描いたり文章を書いたりプログラムもそうですが、座業も例外ではありません。

 長時間机にしがみついて集中するのにかなり体力が要ります。

 これができないと仕事や習練の時間が少なくてうまく行きません。

 経験上プロとしてできる条件は「1日8時間以上作業のできる人」という風に感じます。

 自分は4時間くらいしかできませんが、それでも毎日はそうとう大変です。
 人の下で言われた事を体を使って働くのと別の疲れ方ですが、脳もかなり使うので結構疲れます。

 昔のギリシャの哲学者もかなり運動して鍛えてましたが、読書をしたり考えたりするのに体力が無いと無理だからという理由のようです。

 座業でもそうですが「仕事は背筋でする」という事が多くて、自分は背筋を中心に運動してます。
 もし長時間机に座って集中できないと言う人がいたら、とりあえず背筋を意識して運動する事をおすすめします。

 仕事は背筋で、対人は腹筋で、余力は腕筋で、走ると行動力が付きます。

 10km走れるくらいならアルバイト(仕事)できて、20km走れるくらいならその仕事を続けられるようになるでしょう。

 ちなみに今自分は10km程度しか走れません(笑)
 何とか20kmを目指している所です。

 ゲーム制作か一般の仕事かどっちにシフトするにせよ、応用が利くので体力だけは養っておいて損はありません。
 
 
 この辺はちょっと男性と女性で違うかもしれませんが、高齢のTVドラマの女性作家がプールで運動するのを心がけているとか、人をまとめるポストの女性がジムに通っていたりと「仕事をするには基礎」である事は間違い無いでしょう。
 
 
 例外として芸術家の場合、体力があって緻密ではあるが粗野な内容の人もいるので、詩人とか言う繊細なベクトルにはどうなんでしょうかねという事もありますが、まあ若い頃は意識しなくても体力に問題無かったりもするので人により様々でしょう。
 
 
 自分もそうですが、ニートの人は体力に自信が無くてそうなってる事も多いらしくて体力をすすめる人は多い感じですが、とりあえずニート脱出に即効性があって何をするのにも、あるいは精神をすっきりするのにも「オールマイティ」だと思うので、あるいは何もできないと言う人も、何も考えずに体力の養成だけをして過ごす、というのもありではないかとも思います。
 
 
 
事業資金の話し

 500万円用意する、と言うのが昔から事業のスタンダードみたいです。

 店を出すにしろ、お金を借りるにしろ、初期投資をするにしろ、なんとなく500万円くらいみたいです。

 自分の場合は要するに「どう10年間修練する時間を作るか」という課題がクリアできずに終わったので、若い頃は時間ももったいないのですが、むしろ始めに普通に働いて500万円用意して文句を言われないようにしてしまった方が早かった、とも思います。

 でもこれ、500万円貯めるのもかなり大変な事だと思います。

 事業的に言えば自力で500万円貯められるくらいで、お金の貴重さ使い方、ひいては時間の大切さを知ってないとうまくいかない、とも言われるようです。

 浪費型というのは無理です。

 10年を500万円で持たせると言うのも、節約しなければあっという間に溶けてなくなる金額ですし、元より一人暮らしならたぶん無理な金額でもあります。

 仮に年金と親への支払いで(年金は免除してもらうにしても)月5万円いたとしても年60万円ですから、10年持ちません。
 でもそれくらい時間を工面する資金があったら、かなり違うでしょう。
 
 
 もう一つ重要なやり方があって、こちらが王道になるみたいなんですけど。

 普通の仕事をしながら毎日数時間を当てて、仕事を止めても食べていけるだけのめどが付いたら仕事を止める、という方法です。

 これだと人生が一かばちかという事が無くなりますし、資金に困る事もありませんし、失敗しても何度でもやり直せます。

 例えばTVに出ているような若手芸人でも、アルバイトしてるという人も沢山います。

 この方法の欠点は、仕事によっては働くだけで疲れてしまい何も出来ない、というものです。
 自分は大抵そうでしたし、なかなか芸術系と波動が合わないので難しい事もあります。

 芸術を並行するのではなくて、最近ならネットビジネスのようなものを副業にして収入のめどがついたら仕事を止めて芸術をその副業と並行させる、という方法も考えられます。
 
 
 変則的には4時間働いて、後並行させるというのもあるでしょう。
 
 
 メインの事だけではなくて「今やってる仕事の隙間の時間で、次の仕事の準備を進める」というのは割と王道のやり方のようです。

 「アメーバーシフト」とでも名づけてみましょうか。
 
 
 そんな事より、アシスタントやアルバイト、デバッグか業界か何かに飛び込む、という方法もあるでしょう。

 やり方は人それぞれです、参考までに。
 
 
 
年金の話し

 最後に年金の話しを。

 これは自分も随分苦労させられてきた。
 たぶん夢を追って貧乏生活してる人にはかなり邪魔な存在だと思う。

 ただ今思えばきちんと「免除申請」すればそれほどでも無かったかも知れない。

 ネットで年金機構のページから申請用紙をプリントアウトして、記入して郵送しましょう。
 特に収入が全く無い人の場合は「全額免除を希望」の旨を書いて置いたら良いと思います。
 そのまま申請が通るかどうかは分かりませんが。

 免除は晩年貰える額は少なくなります、しかしこの後どれだけ払われるのかも怪しい所ですし、ずっと安定して払われるのかも知れませんし、その辺は分からないので賭けでしょうかね。
 もちろんお金があれば制度維持のために払いたい気持ちはありますけどね。
 
 
 年金の支払い率自体は、働いてる人が会社の厚生年金で自動的に払っているので9割以上は支払いがあるようです。

 今までは無視しても晩年もらえないだけで何も無かったのですが、2012年頃、つまり安部政権になった頃くらいから取立てが厳しくなってきたようです。

 問題なのは「督促状(特別催促状だったかな?)」がくると、それに「払えない場合は家族の財産を差し押さえる」と書いてある連座制みたいなもので、これはちょっとどうかとも思います。

 家族が払うという法律は1960年代にできたもののようで、その思惑は善意なのか単に国のためなのか分かりません。

 年金は強制加入ですが、これは1980年代に決まった事のようです。

 年金は機能しなくなるとは言われますが、一説には85才くらいまでは働かないとやっていけない世界になるとも言われます。

 自分はあんまり年金を当てにしてませんが、元々うまく行かなかったらのたれ死にでもいいやって感じの人なので、その辺をどうするかは人によるでしょう。

 良く考えましょう。
 
 
 
ニートな人へ

 ちょっとニートの人の書いたものを見たので感想を少し。

 確かに「自分で無い人生を強要される」「自主性を否定される」と言うのが引き篭りを作る原因の大きな一つだと思います。

 自分もその事で戦ってきましたので学校嫌いもあるので中卒ですが、誰がそんな理由で学校いくか、と言うのもあり、つい最近まで毎日親とケンカしてるようなありさまでした。

 親の要請はまあまだともかくとしても、国や社会のための部品として生きろ、と言われるのが大っ嫌いな人間で、そういうファシズムっぽい軍国主義的な所が嫌いでした。

 でも左翼も嫌いです。
 どっちも唯物論なので、真っ当な人間の世界ではありません。

 ただ自主的にやりたい事や目的があって学校へ行くのは良い事だと思います。
 学校には個人にせよ社会貢献にせよ肯定的、積極的な意味もあるでしょう。

 まあともかく反抗して自我を貫く事を多少はしないと、本当に精神が死んでしまいますので、それはやったら良いでしょう。

 ただどんな環境であろうと、ある時点からはうまくいくかどうかは自分の責任になってきます。

 いくら親が良くない親だったとしても、全然時間もチャンスも無かった訳でも無く、才能の無い言い訳に通用しませんし、自分自身に悪いところもかなりあったと思います。

 自我を100%貫けば社会的にうまく行くという事も関係が無いのでまったくありません。

 むしろ親は社会的にはうまく行く方法を強要してくれる(笑)ので、そのレールにのれば社会的にはうまく行く事が多いのではないでしょうか。

 もちろんそれで精神が死んでれば、どうせいずれ廃人になるし、何もなくても精神的に健全なら働いていくらでも積み上げの人生は出来ると思います。

 その辺は程度と環境、人によると思います。
 
 
 さて、親に対する不満は「実は哺乳類の宿命で、ある時期には必ず親に不満を持つ生き物」である感じがします。

 しかし親の事も歳をとるとこれまたどうでも良くなってくるんですよ(笑)

 これはあきらめが付いてくると言う事もあるんですけど、親の子供に対するあきらめもあると思いますし、自分の人生に対するあきらめもあると思います。

 それとある時期からはどうやっても「自分の人生は所詮自分の責任」になってきます、当然ですけど。
 親がどうだったとか環境がどうだったとか関係無くなってきます。
 「それで貴方は何をしたのですか」と問われる事になると思いますね。

 まあたぶんいじめとかもね。
 自分はいじめとかこれまた大っ嫌いな人間で(笑)そんな卑怯な男らしく無い事をなんでするか、むしろ弱者をかばえ、というタイプの割りに、ほんとにケンカがからっきしダメな調和型の人間ですけど(笑)
 学校の場が左翼教育になっていて、唯物論なために善悪が無くなって地獄の世界になってる、とは言われる。
 自分は流石に浮いてるから職場でいじめられる事が無いわけでも無く、それで職場を止める事も多い。
 まあちょっと事情があるんだけど。
 とくに社会だと理不尽な人はいくらでもいる(笑)

 ただたとえ勝てないとしても、ランボーやロッキーみたいに「鍛えて、いつか必ず復讐してやる、一発殴ってやる」くらいは考えても良いんじゃないかと、実際にはしませんけど。
 気持ちだけでもすこしそういう考えを持たないと、忘れる事もできない感じはします。
 ボクシングの内藤大助さんがそんな範を演じてくれてましたね。
 
 
 人間は過去を変える事も未来をどうする事もできなくて「今どうするか、自分は何をするか」という事が重要です。

 まあニートにも色々あるでしょうから参考までに。

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